小松左京『果しなき流れの果に』
という小説を読みました。
たまたま何かのきっかけでこのページにたどり着き
たまたまその日に寄った中古書店で出会い購入しました。
小松左京を読む 東浩紀さんが選ぶ本
章が終わるごとに時空を飛び越えていたりして
ややパニックになりましたがすごく引き込まれる世界でした。
また人間の進化だったり、上部構造というか上位概念
そういった発想がすごく面白いと思いました。
とくにSFマニアではないので分からないのですが
1965年の時点でもうすでにここまで書かれていたということに驚きました。
僕が今まで読んだり観たりして驚いてきたSF作品は一体なんだったんだ
と思ってしまいます。
(それはそれでそれぞれ魅力はあるとは思ってますよもちろん)
SF作品では
時間を飛び越える
ということはよくあると思うのですが
この作品では
時という概念すら超えた世界も描いています。
「時間の立体座標」という概念がでてきた時には理解できず脳が沸騰しそうでした。
一次元的な時間の解釈がいわゆる時の流れ(これは分かります
二次元的な時間の解釈がパラレルワールド(これもなんとか分かります
そして三次元的な時間の解釈。(???
どういうことなのでしょうか?
以前、伊藤計劃『ハーモニー』を読んだ時にもちらっと考えましたが
人間はいずれ「個を失う」というのはSFの定番なのでしょうか。
(ちなみに僕がこの考え方に出会ったのは『攻殻機動隊』だと思います)
「肉体の消失」もしくは「個の消失」
この作品ではどちらも存在し、そして対立構造ではありませんでした。
●以下まとまってない独り言メモ
果たして個が薄くなった社会では誰が世界を認識するのでしょう?
認識ってやはり個がするものだと思います。
ゆえにひとりひとりに世界がある。
しかし個がなかったら限りなく客観となります。
でもそれって認識する必要なくてただそこに世界があるだけ
それってつまりはないのと同じでは?
●メモ終了
小松左京氏の作品を今回初めて読みました。
非常に魅力を感じたので他の作品もこれから読んでみる予定です。
しかしながらどうして亡くなってからその方の魅力に気がついたりするんでしょう。
非常にもったいない。
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