2011年2月20日日曜日

くさいものにはフタをするな

『A3』という本を読みました。



普段あまり積極的に本を読む習慣がなく
読むとしても小説ばかりで
意識して何かのテーマについての本を読むことはない私ですが
なんやかんやでオウム関連の本は関心を持って読んでいます。

『「A」撮影日誌 オウム施設で過ごした13ヶ月』 森達也
『アンダーグラウンド』 村上春樹
『約束された場所で underground2』 村上春樹


そしてこの『A3』

そもそもオウム事件に関心を持ったのは
森達也氏の映画
『A』
『A2』
を観てからです。
このふたつの作品は強烈でした。




私は1988年生まれなので
地下鉄サリン事件が起きた95年3月20日
7歳
まだ毛も生えないクソガキだったとは思いますが
やはりうっすらと覚えています。
世の中大騒ぎでした。

しかしながらこれらの作品を観るまでは
記憶からすっぽりと抜けていました。


今となっては世間的にもそうだと思います。
直接的、間接的の被害者の方でなければ
オウムのことを思い出すのは
おそらくニュースで
「あれから何年…」
といったものや
「容疑者〇〇の死刑が執行された」
など。
もしくは
交番に貼ってある指名手配のポスターを目にした時ぐらいではないでしょうか。


「戦後最悪の凶悪事件」

「化学兵器を使った無差別テロ」

などと称されるこの事件ですが
なぜ今このように忘れられているのでしょうか。
なぜ多くのことが分からないままになっているのに誰も疑問に思わないのでしょうか。
麻原やその信者たちを処刑して「はい、おしまい」でいいのでしょうか。

『A3』を読んで改めてそんなことを思いました。


以下気になったこと

・麻原は水俣病の被害者だった可能性あり?
・麻原の裁判の進め方
・現在の麻原の精神状態とずさん(恣意的?)な精神鑑定 → 問うのは責任能力ではなく訴訟能力では?
・95年3月30日の警察庁長官狙撃事件の犯人は?
・村井秀夫が刺殺された理由は?
・そしてこの一連の事件が起きた根本的な原因は?


悪夢のような事件ですし
動機や真相もとても分かりにくい事件です。
さっさと忘れてしまいたくなる気持ちもとてもよく分かります。

ただ『A3』を読んで改めて思ったことですが
オウム事件が日本社会に与えた影響は大きいです。
著者の言うとおりオウム事件を契機に
今までの当たり前だったことが当たり前でなくなり
新しい「当たり前」が作られました。
この事件の根本的な原因が分かっていない、現実として受け止めきれてない以上
また同じような事件(形は違えどもなにかが共通するようなこと)
が起きてもおかしくはないような気がします。

もう16年も経っているので手遅れの部分は多々あると思います。
しかし時間が経った今だからこと見えてくるものもあるはず。
まだ加害者も被害者も生きている方がたくさんいますし
私たちの生きている時代に起きた大きな事件です。
私たちの世代で総括しなければ。
もう少しこの事件にまた目を向けてもいいのでは?
と思いました。
難しいですね。

2011年2月12日土曜日

ふたつの『1984』

モトローラのタブレットPCのCMが面白かったです。



ご存じの方も多いかと思いますが
これはアップルが1984年に発表したCMに対抗したものです。

アップルのはこちら



このCMどちらも
事前にある程度の知識がないとメッセージがよく分かりません。
僕も大学の授業で教わるまで意味がサッパリ分かりませんでした。


これはそもそも
ウィリアム・ギブスンが書いた
『1984』
というSF小説を引用したものなのです。


簡単にいうと
この『1984』という小説では
1984年におとずれているであろう情報社会は
ビッグブラザーという権力者による監視社会である
という風に描かれています。
つまり情報技術は人々の生活の便利な道具ではなく
権力による統治の道具となっているわけです。

(こう描かれた背景には冷戦の影響が強くあるようです。
「社会主義陣営の未来はこうなるよ」みたいな。)

しかしこのアップルのCMでは
そのビッグブラザー(スクリーンに写ってる人)
をアップルが倒す
というイメージになっています。

ここでのビッグブラザーは
当時のコンピューターのシェアを押さえていたIBMのことを指しています。
(当時IBMは通称『ビッグブルー』と呼ばれてたんだそうな。)

そして最後に浮かび上がるメッセージ

On Junuary 24th,
Apple Computer will
Macintosh.
And you'll see why 1984
Won't be like "1984".


日本語に訳すと

1月24日、
Apple Computer社はMacintoshを発表する。
1984年が『1984年』のようにならない理由がこれで分かるだろう


という感じだと思います。
(ですよね?)

つまり
IBMのコンピューターだと『1984』みたいになっちゃうけど
俺らのマッキントッシュ使えばそうはならないよ

というメッセージです。
なんという自信だw

ただまあこの自信にも根拠があって

IBMのコンピュターの思想はどちらかというと
ひとつの大きなコンピューターがあって
そこにそれぞれの端末でアクセスするみたいなイメージ
中央集権型
だったらしいです。

一方でアップルの思想は
ひとりひとりがコンピューターをもつ
パーソナルコンピュータ
としての考え方が強かったらしいです。
(当時はインターネットもなかった)

ゆえにこういうメッセージになったのでしょう。
支配からの脱却みたいな。

はい。ここまで大学の授業の受け売りでーす。




そして今回のモトローラのCM

大衆はみんな白い服で白いイヤホンをしてますね
これはアップルを指しています。

アップルは何度か危機がありましたが
iPod、iPhone、iPadというデバイスで次々と大成功をおさめ
シェアを広げていきました。
今ではマイクロソフトを超える時価総額となっています。
多数派のWindowsに対抗する少数派Mac
かつてのアップルユーザーは肩身の狭い思いをしてきましたが
気がついたらDAP、スマートフォン、タブレットPCでは圧倒的なシェア
どこに行ってもiPod、iPhoneユーザーだらけです。

また多くの方がご存知の通り
他の製品と互換性のないiTunes
しっかりマージンをとりながらあらゆる音楽、映画、アプリを配信しているiTunes Store
ユーザーとしては一括で使えるのでとても使いやすいというメリットはあるものの
これは一種の支配とも考えられます。

それらに対してモトローラが今回のこのCMで
「お前らがビッグブラザーになってるじゃねえか!」
「みんなそこから解放されようぜ!」
と言ったわけです。
モトローラかっこいい!

時は流れてるんですね。
ジョブズだってココロのどこかで思ってるかもしれません。
「こんなはずではなかった」と。(勝手な想像です)
インディーズで「みんな死ね!」みたいなこと歌ってたバンドが
売れて「みんな愛してる!人類みな兄弟!」と歌い出すみたいな感じですかね。
(たぶんちがう)


ただこの製品がiPadより優れてるかどうかは知りません。
僕はどちらかというとiPadのほうが欲しいです。
おおビッグブラザー!



こういう風にある程度の教養だったり
知性を求められるCMって素晴らしいと思います。
私はアタマがよくないのでこういうこと言える立場ではありませんが。

やはりCMというのはモノを売るためにつくられる作品であるがゆえ
より多くの消費者に伝えるべく誰にでも分かりやすい形で作られるものだと思います。
(逆にこうやって知識のいるモノでブランドイメージを作るという方法もありますが)

しかしながら近頃はCMだけでなく
テレビ番組やらなんやらで
丁寧すぎ
分かりやすくしすぎ
と感じることが多々あります。
逆にバカにされているのではないか
と思うくらい。

もちろん世の中にはいろんな人がいますから
そこに合わせる理由も分かります。
ただやはり
「視聴者のレベルに合わせて作るもの」
とは別に
「視聴者のレベルを引き上げるもの」
もあってもいいのでは?
ひとつの作品として人々を啓蒙する役割があってもいいのではと思ったのでした。


ただ僕もそういったものを求めてばかりいないで
もっと広い意味で勉強して見識を広げねばいけませんね。

2011年2月8日火曜日

ほぼ日手帳

もう2月ですね
というか前回のポストからすでに2月でしたね。
一年の1/12が終了。
時が経つのはあっという間です。
人生もこういった延長で
きっと気がついたらきっと棺桶の中なんでしょう。
こわいこわい。

今年も手帳を買いました。
あれこれ散々迷った挙句
昨年、一昨年に引き続き「ほぼ日手帳」を買いました。




ちなみに4月はじまりのもの。


買う決め手となったのはやはり「使いやすさ」です。

構想として

スケジュール管理 → iPhoneのカレンダー&googleカレンダー
思考のカス(メモ、感想、愚痴e.t.c) → MOLESKINE

というスタイルを考えていましたが
上手くいくか不安でしたし
生活スタイル(というほどのものでもないけど)
を変えるのがちょっと面倒でした。

書いてて思ったのですが
たかだか22やそこらで生活を変えるのを怖がる(面倒くさがる)のはイカンですね。
オヤジみたいです。
慣れって怖い。

来年、無事社会人になる予定が確定したらまたこれに挑戦してみようと考えています。


それにしても
紙の手帳を使ってるとアナログメディアの良さ・強さをひしひしと感じます。

紙に文字や絵を書くというのはなんというか身体的な行為なので
ものすごく自然というか、感情と直結してるような感覚があります。
また、大事にすれば長持ちするので記録メディアにもなりますし
常に持ち歩いていれば身近な外部記憶装置にもなります。

あと
ほぼ日手帳は

日記+手帳÷2

みたいな使い方がしやすいので(というか推奨してる感がある)
とても便利なのです。

一日1ページになっているので検索性も高いです。
例えば2年前の今日は何してたかというのも大体ならすぐ分かります。

日記というちゃんとした形式をとると
面倒になってちゃんと書きません。
かといって小さい手帳はスケジュールのみしか記入しないので
開く気も起きません。
しかしほぼ日手帳であれば
手帳という形をとりつつも、いい意味での無駄なスペースがあります。
スケジュールと自分の所感だったりを一緒に書き込めるので
どちらも気軽にできます。



ちなみに
2年前の2月8日
僕は
10時に起床
12時から6時間アルバイト
その後何をしたかは書いていませんが

 縦写真-決断・主観・瞬間
 横写真-観察・客観・時の流れ

とメモしてあります。
おそらくこの時期は写真の理論とか技術みたいなものにやや興味があったので
たぶん写真雑誌でも立ち読みして気になったことをメモってるのだと思います。

あと

 夢日記をつけると現実と夢の記憶があいまいになる?

とやや恐ろしいことが書いてあります。
なんなんだこれは?

こうやって無駄なことも無駄ではないことも
記録すれば日々の反省になり
生活の改善に繋がるはず

なんですが
今のこうした自堕落な生活を考えるとあまり反省できてないのかもしれません。

ちなみに手帳のカバーには
自分で撮った風景の写真を入れています。
そろそろこれも飽きてきた。

2011年2月2日水曜日

ペンギン・ハイウェイ

森見登美彦氏の
『ペンギン・ハイウェイ』
という作品を読みました。



私はあまり本を読むほうではないのですが
森見登美彦氏の作品はとても好きで
大体の作品は読んでいます。

『太陽の塔』
『四畳半神話大系』
『きつねのはなし』
『夜は短し歩けよ乙女』
『新釈 走れメロス』
『有頂天家族』
『美女と竹林』

はすべて文庫版を購入しました。

そうそう
なぜ文庫版かというと
ハードカバーの本はモノとしてはすごく好きなのですが
文章を読むメディアとしては
私にはどうしても不便なのです。

私が本を読むの場面は
大きく分けて2つ。
夜寝る前
もしくは
退屈だけど出席せねばならない授業中
のどちらかです。

夜寝る前はベッドに入りゴロゴロしながら読むため
ハードカバーでは不便です。
幼少の頃に早くも運動神経がないことに気が付き
以後体を動かす機会から積極的に逃げ続け形成された私の肉体には
もはやキーボードをパチパチやる程度の筋力しか備わっていないので
ゴロゴロしながらハードカバーの本を読むと
腕が筋肉痛になってしまいます。
同時に集中力の欠如した私は
本を読みながらうつらうつらしてしまうことも多いので
ハードカバーでそれをやってしまうと本を落下させ顔面が陥没し
とんでもなくイケメンになってしまうおそれがあります。

また
退屈だけど出席せねばならない授業中の場合
(よい子は真似してはいけません)
まず歩くこと以外に必要のない筋力をそぎ落とした私の究極のボディには
数百グラムのハードカバーの本をカバンにいれ外出するだけでもかなり骨の折れる作業です。
かつ石橋を叩いて壊すほどのチキン野郎なので
大きい本を授業中に広げる勇気はありません。


しかし
今回読んだ『ペンギン・ハイウェイ』は
ハードカバー。

なぜか。
それはもらったからです。
てへ。
誕生日に兄に頂きました。
感謝感謝。
頂いたからにはちゃんと読まねばと思い
腕の筋肉痛に耐え顔面を陥没させながら読みました。


この作品は
舞台が京都ではありませんし
腐れ大学生も出てきません。
桃色ブリーフもでてきません。
小学生の男の子が主人公のファンタジーです。
なるほど「森見登美彦の新境地」とカバーに書くだけはあります。

ただ森見登美彦氏のユーモアは健在でした。
おっぱいもでてきました。

謎解きかと思いきやそうでもなく
やや切なさが残りながらも希望がみえるオチでした。
きっと本をたくさん読む方には不満の残る作品かもしれませんが
私は割と好きでした。

それにしても森見登美彦氏の小説のでてくる女性は素敵です。
明石さんにしろ「彼女」にしろ
この作品にでてくる「お姉さん」にしろ
もはやお約束となりつつありますがエキセントリックでキュートです。
そしてどこか凛々しい。
素敵過ぎるくらい素敵です。
リアリティ?
そんなもの必要ないのです。
あこがれって大事なんです。
ゆえに森見作品のヒロインに嫌悪感を覚える女性がいらっしゃるのもまた理解できますが。

僕も少年のように「お姉さん」に会えるようにがんばらねばなあと思いました。